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六合八法拳の歴史

陳摶(872-989)は、安徽省、亳州市出身の有名な道士として、若い頃、数学や易経の解読などの優れた才能を発揮した。ある日、彼は、一人の道士から武当山へ行けと助言をもらい、その九岩室に籠もり、呼吸の鍛錬と道を極めることを決意する。20年後、陳は、一人で住むため、武当山、華嶽へ渡る。陳は、修道士として、とどまろうとしたが、彼の学者としての知名度は、ついには皇帝の興味を引くこととなる。

956年、世宗皇帝は陳が国家を我がものにしようとしていると考え、陳を裁判に掛ける。陳はこの裁判で、懲役100日を言い渡される。皇帝が陳の様子を看守に伺うと、看守は、「陳は、とにかくただぐっすりと寝る」と報告した。そして皇帝は陳には国家を揺るがす野望が全くなかったと考え、陳を釈放し、このまま助言者として皇帝に仕えるよう、陳に依頼する。だが陳はその申し出には興味がなく、結局、皇帝と将棋対決に身を委ねることにした。

勝利した陳は、そこを出発し、華嶽に戻る決意を告げる。984年、皇帝、太宗は、陳を訪問し、彼を大変賞賛した。陳の知識と熟練された技術に強い感銘を受けた皇帝は、陳を「希夷」と言う名を与えた。希夷とは、「珍しい人」と言う意味である。

太宗皇帝から「希夷」の名を授かった陳、陳希夷は、中国歴史上、最も有名な人物の一人なのである。彼の、道教、仏教、そして孔教の一歩進んだ哲学的理論は錬金術の法則と融合していることが、彼の修行や教えなどから見られる。陳は、六合八法、二十四氣導引術、睡功法、そして、太極尺の開祖となる。彼の弟子の一人に、火龍道人という道士がいた。火龍道人は、後の太極拳の伝説上の開祖、張三豐の師である。

陳の運命的な次期伝承者は、道士、李東風である。李は、陳のいる洞窟に遭遇した際、華山を登った。そこで、故前道士つまり陳の死体と彼の残した解析の写本を発見する。内頸の解体新書と読んでも良い彼の解析には、身体の内部の力学と原理がこと細かく分析され、6つの和合、調和つまり六合と8つの方法、手段、すなわち八法に区分されている。そしてこれは古代の身体の内けいの設計図でもあった。李は、生涯を費やし、遂には、陳の残した秘伝の解明に成功する。その解明は「築基」と言う書にまとめられた。

この奥義は脈々と、数少ないその拳に相応しい者達に受け継がれて行き、達人、呉翼輝(1887年~1958年)に継承される。呉は、中国の北東部の鉄嶺市出身で、学識のある国家の役人の家庭の出でもある。呉は六合八法をまず閻國興から学ぶ。次に陳光弟から学び、最後には、陳鶴侶から学ぶ。どの師も呉にとって、六合八法の世界をより深いものにして行った。そしてこの秘伝は呉によってより洗練され完成度の高いものに成っていく。呉は六合八法を人々に教え、公に公開した最初の人物となった。1936年、呉は、南京にある中央國術館に招待され、教授することになり、学部長になる。これは、彼が人々に六合八法と彼の名を世の中に知らしめたといっても過言ではない。

 

中央武術舘、南京1950年代

左上から:
陳亦人、韓星橋、尹天雄

左下から:
姜容樵、呉翼輝、 張之江、褚桂亭

陳亦人褚桂亭について形意拳を学び、姜容樵について八卦掌を学び、韓星橋について大成拳を学び、翼輝について六合八法拳を学びました。

褚桂亭以外は呉翼輝について六合八法拳を学びました。

尹天雄華嶽希夷門の“呂紅八勢”を専門とし、六合八法の理論の達人だった。

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1928年、意拳の創設者の王郷斎は「中国国内千人程と勝負をして、勝てなかったのは2.5人は本当の武術の能力を持っている。まず、湖南の解鉄夫、上海の呉翼輝、そして0.5人、つまり勝敗が決まれなかった相手は福建の鶴拳家である。」と言った。王郷斎は呉翼輝に負けた後、彼らは友達となった。王郷斎は呉翼輝の生徒ではなかったが、呉翼輝から少しだけ六合八法拳を体験させてもらった。この体験から王郷斎は新しい意拳を創設したと推測されている。王郷斎は呉翼輝のことをとても尊敬し、自分の一番弟子韓星橋を始めとする生徒たちが、より腕を上げ、理解が深まるように呉翼輝の下で勉強させた。


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呉は才能のある者達に秘伝を教えた。その中で最も有名な呉の伝承者は、陳亦人(1909年~1982年)である。陳は広東省の出身で、幼少のころ上海に移った。陳はとても才能があり、いくつかの中国史上最も有名な内家拳を研究する特権があった。陳は知人の武術の熱心家でもある将軍、張之江を通じて、多くの武術の達人を修行のため紹介される。そして最後に紹介された達人が呉翼輝である。

 

呉とその流派は陳にとって特殊なものであった。陳は呉の下でこの流派を吸収し、修行に打ち込んだ。そして呉と旅を共にし、南京にまでも呉に同行し、この研究を続けた。
1954年、陳は中国を離れ、彼の仕事の拡大のため香港に移る。そこでは、武術団体の歓迎が彼を待っていた。だが陳には師になりたいとう望みが全く無かったのは誰の目からも明らかであった。1956年から1965年あたりに彼の事業は陳をシンガポールへと向かわせる。そこでも同じく歓迎され、六合八法の伝授を要求される。
陳はもう一度、伝授する機会の1969年まで香港に帰ることは無かった。彼には多くの弟子がいたが、この流派に認められた弟子の数はたったの6名であった。その六人とは、龍華、莫其輝、蔡惠麟、周梅添、何滿祥、そして潘逸であり、陳は自身の突然の死去の1982年まで伝授し続けた。


  

 

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