勝利した陳は、そこを出発し、華嶽に戻る決意を告げる。984年、皇帝、太宗は、陳を訪問し、彼を大変賞賛した。陳の知識と熟練された技術に強い感銘を受けた皇帝は、陳を「希夷」と言う名を与えた。希夷とは、「珍しい人」と言う意味である。
太宗皇帝から「希夷」の名を授かった陳、陳希夷は、 中国歴史上、最も有名な人物の一人なのである。彼の、道教、仏教、そして孔教の一歩進んだ哲学的理論は錬金術の法則と融合していることが、彼の修行や教え などから見られる。陳は、六合八法、二十四氣導引術、睡功法、そして、太極尺の開祖となる。彼の弟子の一人に、火龍道人という道士がいた。火龍道人は、後 の太極拳の伝説上の開祖、張三豐の師である。
陳の運命的な次期伝承者は、道士、李東風で ある。李は、陳のいる洞窟に遭遇した際、華山を登った。そこで、故前道士つまり陳の死体と彼の残した解析の写本を発見する。内頸の解体新書と読んでも良い 彼の解析には、身体の内部の力学と原理がこと細かく分析され、6つの和合、調和つまり六合と8つの方法、手段、すなわち八法に区分されている。そしてこれ は古代の身体の内けいの設計図でもあった。李は、生涯を費やし、遂には、陳の残した秘伝の解明に成功する。その解明は「築基」と言う書にまとめられた。
この奥義は脈々と、数少ないその拳に相応しい者達に受け継がれて行き、達人、呉翼輝(1887 年~1958年)に継承される。呉は、中国の北東部の鉄嶺市出身で、学識のある国家の役人の家庭の出でもある。呉は六合八法をまず閻國興から学ぶ。次に陳 光弟から学び、最後には、陳鶴侶から学ぶ。どの師も呉にとって、六合八法の世界をより深いものにして行った。そしてこの秘伝は呉によってより洗練され完成 度の高いものに成っていく。呉は六合八法を人々に教え、公に公開した最初の人物となった。1936年、呉は、南京にある中央國術館に招待され、教授するこ とになり、学部長になる。これは、彼が人々に六合八法と彼の名を世の中に知らしめたといっても過言ではない。 |